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編輯推薦: |
●今年是中日邦交正常化50周年。本书由中日两国友好人士共同撰写,记录了他们在中日民间交流中的难忘经历。书中凝聚了中日两国朋友们的友情、智慧和力量。
●本书日汉双语对照,既是中日两国民间友好往来的印证,又是有助于日语学习的读物。
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內容簡介: |
今年是中日邦交正常化50周年。民间友好是中日关系的宝贵财富,在两国关系发展进程中始终发挥着不可替代的重要作用。在民间的经济、文化往来中,善良热情的中国人民给日本人留下了很深的印象,在共事、合作的过程中,中日两国人民结下了深厚的友谊。本书由中日两国友好人士共同撰写,收录数十篇回忆中日友好交流往事的文章,记录下了中国人民帮助刚来中国的日本人,日本友人积极了解中国文化等美好事情。汉日双语对照,本书既是中日两国民间友好往来的印证,又是有助于日语学习的读物。
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目錄:
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目? 次
私の日中交流―上海白玉蘭会創設の想い出―
………………………………………………… 星屋秀幸 / 001
忘れ難きペンフレンド……………………………… 朱偉林 / 008
あの頃の事、40 年超えて変わらぬ友人関係 … 古林恒雄 / 016
中日相互自宅訪問で友情を深める ………………… 章坤良 / 025
100 年を超えて続く孫文と梅屋庄吉の友情…… 小坂文乃 / 031
原次郎への思い出…………………………………… 姚建健 / 036
秋沢誠監督との思い出……………………………… 董石華 / 043
タクシー?ドライバー?ラプソディ …………… 米田麻衣 / 052
中日交流の虹の橋に微力を捧げる ………………… 吴蓉婕 / 057
合唱を通じて日中民間交流……………………… 伊藤俊彦 / 063
東京の洋服師匠と上海の HONGBANG の二代 ……… 韓楽華 / 071
人情の街――上海…………………………………… 八田健 / 079
「俳句」と「回想上海」 …………………………… 胡秋興 / 085
『真実の中国』報道は上海支局スタッフの協力の
お陰である …………………………………… 川村範行 / 091
いつかまた田部長とめぐり会えますように………… 李新 / 099
中国駐在員事務所での思い出………………… 中村健一郎 / 109
第二の故郷を愛でる日本友人……………………… 潘宝康 / 115
上海での楽しい交流………………………………… 西村隆 / 120
私と日本人先生……………………………………… 銭希林 / 125
西岡おばちゃん…………………………………… 太田雪子 / 132
稲見春男さんの中国への思い………………………… 于強 / 140
南翔早酒会の思い出………………………………… 土橋徹 / 144
呉昌碩先生の胸像が日本に建立された意義………… 呉越 / 148
上海歴史散歩の会との出会い…………………… 山本和夫 / 151
西尾ママのさい期の時………………………………… 朱国紅 / 159
私に仕事上の指導をして下さった石田康人さん… 趙衛森 / 166
田中美弥 OR 久後美弥 ……………………………… 張慧慧 / 172
忘れられない歳月―東京駐在の五年間の二、三の事―
…………………………………………………… 張号明 / 179
我的日中交流——回忆创建“上海市白玉兰奖日本联谊会”
………………………………………………… 星屋秀幸 / 185
难忘笔友……………………………………………… 朱伟林 / 192
回首往事 40 载,点点滴滴都是情 ……………… 古林恒雄 / 197
互家访,增情感……………………………………… 章坤良 / 205
跨越 100 年的孙中山和梅屋庄吉的友谊………… 小坂文乃 / 209
原次郎的故事………………………………………… 姚建健 / 214
我与秋泽诚导演……………………………………… 董石华 / 219
出租车司机狂想曲………………………………… 米田麻衣 / 225
为搭建中日交流彩虹之桥尽绵薄之力……………… 吴蓉婕 / 229
通过合唱加强日中两国的民间交流……………… 伊藤俊彦 / 234
东京西服匠人与上海“红帮”二代………………… 韩乐华 / 241
人情味之都——上海………………………………… 八田健 / 248
“俳句”和“回想上海” …………………………… 胡秋兴 / 253
报道“真实的中国”,得益于上海支局工作人员的努力
………………………………………………… 川村范行 / 257
寻找佳丽宝田部长……………………………………… 李新 / 264
忆驻中国上海事务所…………………………… 中村健一郎 / 271
钟爱第二故乡的日本朋友…………………………… 潘宝康 / 276
在上海的愉快交流…………………………………… 西村隆 / 280
我和我的日本老师…………………………………… 钱希林 / 284
西冈太太…………………………………………… 太田雪子 / 289
稻见春男的中国情……………………………………… 于强 / 294
回味无穷的“南翔早酒会” ………………………… 土桥彻 / 297
吴昌硕先生胸像日本落成记…………………………… 吴越 / 300
与上海历史散步会的相遇………………………… 山本和夫 / 303
西尾妈妈的蕞后时光………………………………… 朱国红 / 310
我工作上的启蒙老师石田康人先生………………… 赵卫森 / 315
田中美弥还是久后美弥? …………………………… 张慧慧 / 319
难忘岁月——长驻东京五年之二三事……………… 张号明 / 324
後書き …………………………………………………………… 328
后记……………………………………………………………… 331
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內容試閱:
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序にかえて
─世世代代友好であれ?共に未来へ向かわん─
今年で中日国交正常化が実現して 50 周年となります。この五十年の間、特に中国の改革開放が始まって以来、中日民間友好交流が堰を切った流れのごとくどっと盛んになりだしました。進んで交流に取り組み、参加された人々の多さ、交流分野の広さ、注がれた情熱の高さ、いずれも未曽有でした。これはこれまで抑制されてつもりたまった中日民間交流の願いが解放されたからでしょう。いわゆる友好交流とは、相互に行き交い、相互に見学し合い、相互に学び合い、相互に助け合い、相互に協力し合い、相互に尊重し合うことだと思います。交流の中でのさまざまな感動させられる場面を記録に残すため、この文集には中日各界の 29 名の方が執筆された記念文が収められています。記念文は執筆者にとっては良き友好の過去であり、また人生における忘れがたい思い出でしょう。読者にとっては感動にたえず、中日両国の民衆が親しくしあって心を通じあい、文化において相通じあうという心の絆があること、みな世世代代友好の強い願いを抱いていることを深く感じ取るに違いありません。
記念文集が出版できたことは喜ばしい限りです。これも中日民間友好交流の成果と言えるでしょう。苦労を辞さず編集を担当された各位に敬意を表します。
私も長年中日民間友好交流に携わってきました。中日民間友好交流に従事したのは私の運命ではないかとよく思います。私には日本と切っても切れない縁がありますが、その縁は先天的のと後天的の二通りなのです。私の父母は日本にいた華僑ですが、今は日本の横浜にある華僑墓地に永眠しています。私は生まれも育ちも東京ですが、16 歳の時に中国の経済建設に加わるんだという大きな夢を抱いて単身勇んで祖国に帰ってきました。この経歴が日本と結んだ先天的な縁となったのです。後天的な縁は中日国交正常化の実現および我が国の改革開放の歴史的二大事が私にもたらしてくれたものですが、先天的な縁が引き出したものとも言えましょう。私が大学で学んだ専門は哲学でした。大学卒業後、上海外国語学院(上海外国語大学の前身)のマルクスレーニン主義教研組に配属されて哲学教員となりました。2 年後、先天的な縁が役に立ったというか、国が日本語のできる人材を必要とするために、私は鞍替えを命じられて日本語を教えることになってしまいました。それで上海外国語学院で日本語教育に 20 年たずさわりました。そのあと、上海市が改革開放で日本語のできる外事幹部が必要となって、私はまたも鞍替えを命じられて、こんどは上海市人民政府外事弁公室で 16 年間勤務することになりました。仕事は日本と関係するのが少なからず、先天的な縁がたいへん役に立ったことは言うまでもありません。定年退職後、中日友好の志向により日本の長崎のある大学の要請に応じて教鞭をとることになりました。中国事情という科目とゼミを担当して、内容は中國概況、改革開放、社会主義近代化、中国の特色のある社会主義、などなどでした。そのほか中国語も教えました。私は日本の若い人に中国を知ってもらい、中日民間友好交流促進につながればと願ったのです。長崎に 9 年間滞在して楽しい有意義な日々を過ごさせてもらいました。70 歳で二回目の定年退職を迎えて上海に戻り、静かに晩年を送ることになりました。しかし、中日友好の志向はのんびりとはさせてくれません。日本を紹介する文章を書きだしてしまったのです。今度はわが同胞に日本を知ってもらい、中日民間友好交流を推進する力になってもらおうと願ったのです。のちに書いた文章を集めて一冊にして『日本を知る 日本語を知る』というタイトルで出版しました。妻は生前よく私にこう言っていました。「あなたはいつも忙しくして休まないわね。中日友好の仕事は一生したことになるわよ。」私が毎日忙しいわけは、何をするのもみな中途からその道に入ったため、知識や能力に先天的な不足があって、人一倍奮闘努力しなけば駄目だという自覚があったのです。私は今はすでに老耄となり、来た道を振り返れば、祖国の必要によって私の先天的な縁と後天的な縁とが合わさって、私の日本との切っても切れな
い縁となったのでしょう。
私に曽て出会った出来事でいまだ忘れられない感動の場面があります。何年か前、仲間たちとシルクロード日本の拠点長崎の見学訪問に出かけました。観光地雲仙の旅館「富貴屋」に泊まった時、みんな大広間に会して夕食をとった際、余興で私は杜甫の詩『春望』を暗唱しました。翌朝、旅館を出る際、中年の係が訪ねてきて私に一枚の紙を差し出してこう言ったのです。「夕べ私がお客さんに食事を運んでいたとき、あなた様はちょうど杜甫の詩『春望』を暗唱されていました。私はそれを聞いてとても感動させられました。この詩は高校時代に習ったことがあります。私の大好きな詩です。これは私が書き写した『春望』ですが、どうかサインをお願いします。記念に残しておきたいのです。」見てみると、たいへん丁寧な漢字で書き写されていました。私はすぐにサインをしました。彼はありがとうございますと言ってお辞儀しました。私は深く感動しました。ごく普通の日本の人がこれほど中国文化を愛いしていたのが意外だったのです。中日両国が文化の面でこれほど相通じていたのかと心に思い、これは中日世世代代友好にとってたいへん大切な心の絆なのだ、私たちは大切に守っていかなければいけないと強く思いました。
現在、世界はこの百年間なかった空前の大変化に直面していますが、中国は著しい発展を遂げ、日本にも大きな変化が起こりました。中日関係はまさに新しい時代を迎えつつあります。両国は新しい時代の要請にかなう中日関係を模索しながら構築中です。中日民間友好交流は過去を受け継ぎ未来を切り開き、良き伝統をさらに輝かせて、絶えず前へと進むべきことでしょう。中日両国は地理的に近く、交流が久しく、文化が相通じています。これは中日民間友好交流の確かな基礎と言えるでしょう。今の中日民間の人員往来は今昔の感ありで、新型コロナウイルス感染症の発生の前では、中国側の日本への観光人数が大幅に増えて、2019 年はすでに 900 万人を超えました。おかげでわが同胞の対日認識が大きく改善されました。中日民間友好交流に携わる人たちにとってはうれしい限りです。しかし、残念なことは日本側の中国への観光人数がだんだんと減ってきています。目で見たものは確実だというように人員往来は相互認識の増進、相互理解の増進、相互信頼の増進、互いの感情の増進にとっては欠かせないルートであり、媒体です。前世紀の 80年代 90 年代日本側からは大勢の民衆が中国を訪問し交流されて、推し進められていた中国の改革開放を目の当たりに見聞して対中認識を高められました。これが両国の友好共存に資したことは明らかと言えるでしょう。科学技術がどんなに発達しても、人と人との交流に替えられるものではないと思います。中日民間友好交流は過去においても重要であり、現在と将来においてもやはりたいへん重要であると思われます。私たちはこれまでのように中日民間友好交流を続けていき、日本の民衆に客観的に、全面的に、如実に中国の平和的発展を知ってもらい、新しい時代に順応し、世世代代の友好を忘れず、共に未来へ向かおうではありませんか。
2022 年 3 月 20 日
兪彭年
はじめに
此度、中日国交正常化 50 周年を記念すべく、朱偉林と姚建健は、中日の民間交流でのエピソードのある中国人と日本人の両者で、お祝いとして本を書こうと呼びかけました。
その結果、多くの方々からご賛同を頂きました。そして、まもなく、姚建健、朱偉林、董石華、呉蓉婕とベテランジャーナリストの章坤良からなる出版準備委員会が発足したのでした。みんなの力を合わせて本を書くと言うのは簡単ですが、実際に行うのはさほど容易なことではありませんでした。まずは、原稿の募集が大きなチャレンジでした。出版準備委員会は、東奔西走し、知人に原稿をお願いしたのですが、色々な理由で断られることすらありました。
しかし、それでも、出版準備委員会は諦めず、さらに日系企業に勤めた経験のある人や外事関係者にも幅広く声をかけました。すると、次第に多くの方々から共感を得られたのでした。
生きているうちに、中日民間友好交流のために微力を尽くせれば、非常に光栄――という声が多く聞かれたのでした。
とりわけ、中国と縁の深い日本人の方に原稿を依頼すると、直ちに親密にサポートをいただき、熱心にご協力くださいました。
特に在上海日本国総領事館の米田麻衣領事は、自ら率先して寄稿くださっただけでなく、上海市白玉蘭奨を受賞された数名の日本人の方々にまでお声がけくださいました。また、中国通の伊藤俊彦さんと山本和夫さんは 70 歳を過ぎているにも関わらず、日本語訳文の校正と添削までを喜んでお引き受けくださいました。お二人は「中日両国のみんなの力でこの本を作ることこそ、中日民間友好の大きなエネルギーにつながる」と語られました。また、「中日の双方が協力し合えば、必ず友好の成就ができるはず」とも述べられました。
お二人は邦訳の添削のために、毎日夜半まで、ご尽力いただきました。時には、明け方まで生徒の宿題を採点するように、一字一句校正し、添削した部分を赤字で修正表記してくださいました。のちに、中国側翻訳者と交流をし、なぜこのように添削したのか、その理由もご説明いただきました。朱偉林秘書長は、お二人が書き直してくださった文章を読むたびに、「お二人が手入れされた文章は、何より味わいが違うし、私たちのレベルとは、今ひとつ異なるものなので私たちも頑張らないといけない」としみじみと語られました。
昨年 8 月に本を書こうと呼びかけてから、今年 4 月までにわずか 8 か月で、日中対訳文で合計約 30 万字の文集が完成できたことは、奇跡というべきことでした。
この本の寄稿者は、中日各界の 29 名の方です。したがって、この本は中日両国の人達の友情、知恵と力の結晶で、中日共同の努力で完成したものなのです。これも、中日民間が友好合作で成功した素晴らしい例の一つと言えるでしょう。まさしく、これは、中日国交正常化 50 周年に捧げる私たちのプレゼントと言えるのです。
さい後に、この場をお借りして、本書の寄稿者の皆様に、改めて御礼と感謝を申し上げます。そして、今後も変わることなく、中日民間友好交流のために力を尽くして参りたいと思っております。
出版準備委員会
要世代友好,一起向未来(代序)
今年是中日邦交正常化 50 周年。在这 50 年里,尤其是中国改革开放以后,中日民间友好交流像开闸泄洪般蓬勃开展起来。人们都积极主动参与其中,人数之多、领域之广、热情之高前所未有。这也许是因为长久以来的渴望进行中日民间友好交流的情感获得了释放。所谓友好交流就是相互来往、相互参观、相互学习、相互帮助、相互合作、相互尊重。为了把种种动人景象记录下来,我们邀请中日各界 29 位人士撰写了纪念文章并结集成册。每篇文章都记录下了作者与中日友好交流有关的美好往事和人生中的难忘回忆。阅读这些令人感动不已的文章,我们会深深感受到中日两国人民的心是相通的,文化方面也有很多相通之处,彼此都抱有要世代友好的强烈意愿。
纪念文集能够出版可喜可贺。应该说这也是中日民间友好交流的成果。我向为编辑本书不辞劳苦的各位表示敬意。
我也长年从事与中日民间友好交流相关的工作,自己总觉得这似乎是命里注定的。我与日本有解不开的缘分,而且既有先天的又有后天的。我父母是旅日华侨,如今都长眠于日本横滨的华侨公墓里。我出生并成长于日本东京,16 岁时抱着参加中国经济建设的宏愿独自一人回到祖国。这些经历使我与日本结成了先天之缘分。而与日本结的后天之缘分是中日邦交正常化以及中国实施改革开放这两大历史事件带给我的,也可以说是从先天之缘分牵出来的。我在大学里学的是哲学专业,毕业后被分配到上海外国语学院(上海外国语大学的前身)马列主义教研室,成为一名哲学教师。当时国家急需日语人才,两年之后,先天之缘分起了作用,组织上要我改行教日语,从那以后我在上海外国语学院从事了 20 年的日语教学工作。之后,上海市政府需要懂日语的外事干部,组织上要我再次改行,于是我到上海市人民政府外事办公室工作了 16 年,所做工作有不少与日本有关。不言而喻,先天之缘分派上了大用场。退休之后,我想继续从事与中日友好交流相关的工作,于是我应邀到日本长崎的一所大学里任教。我负责中国概况课及相关研讨会,内容包括中国概况、改革开放、社会主义现代化、中国特色社会主义等,另外还教学生中文。我是想让日本年轻人了解中国,从而促进中日民间友好交流。我在长崎工作了 9 年,过得愉快而有意义。到了 70 岁,我第二次退休并回到上海,准备安度晚年。可是我还是闲不住,想继续为中日友好交流做一些事情,于是断断续续写些介绍日本的文章。这次是期望国人了解日本,并推动中日民间友好交流。后来我把文章汇编成册,出了一本书叫《了解日本 了解日语》。我老伴生前几次说我:“你总是忙忙碌碌,做了一辈子中日友好工作。”我之所以忙忙碌碌,是因为我做事样样都是半路出家,所以始终觉得自己知识水平、工作水平不够,深感自己要比别人更加奋发努力。如今我已经是耄耋老人了,回顾走过来的路程,是祖国的需要把我的先天之缘分和后天之缘分合在一起,让我与日本结下了不解之缘。
我曾经碰到过一件至今难忘的动人事情。前几年,我和几个朋友到海上丝绸之路途径的日本长崎去访问考察。一天投宿于旅游景点云仙的日式旅馆“富贵屋”,晚上大家聚在一间大房间用日式晚餐,席间,我用日语背诵了杜甫的诗《春望》。第二天早上我们要离开旅馆时,一位中年男性过来找我,他是旅馆的工作人员,他递给我一张纸说:“我昨晚给客人端饭菜的时候,您正好在背诵杜甫的诗《春望》,我听了很感动,那首诗我上高中的时候学过,我很喜欢那首诗。这是我抄写的《春望》,请您给我签个名,我要留作纪念。”一看,他是用很工整的汉字抄的,我当下签了名字,他鞠躬致谢。我很感动,没有想到一位普普通通的日本人会这么热爱中国文化。我心想,中日两国在文化方面有这么多相通之处,这是中日世代友好的非常重要的心灵纽带,我们一定要好好珍惜。
如今世界面临着百年未有之大变。中国发生了巨变,日本也发生了很大变化。中日关系正迎来新时代。两国正在摸索着构建契合新时代要求的中日关系。中日民间友好交流需要继往开来,发扬优良传统,不断推向前。中日两国地理相近、交流久远、文化相通,这是中日民间友好交流的稳固基础。如今中日民间人员往来今非昔比,新冠肺炎疫情发生之前,中方赴日旅游人数大幅增加,2019 年已经超过 900 万人次,国人对日本的印象有了很大的改善,这对从事中日民间友好交流活动的人员来说是一件非常欣慰的事情。而遗憾的是日方来华旅游人数却逐渐减少。眼见为实,人员来往是增进相互了解、相互理解、相互信赖,加深彼此感情不可或缺的渠道、媒介。二十世纪八九十年代日方有大批的民众来华访问交流,亲眼看到改革开放中的中国,对华认知大有提高,促进了两国的友好相处。科技无论多么发达,都代替不了人与人的交流。中日民间友好交流过去重要,现在和将来依然很重要。让我们一如既往地把中日民间友好交流开展下去,请日本民众客观、全面、如实地了解中国的和平发展,适应新时代,不忘世代友好,一起向未来。
2022 年 3 月 20 日
俞彭年
前 言
此次,为了纪念中日邦交正常化 50 周年,朱伟林和姚建健发起了一项倡议,希望在中日民间交流中有趣闻逸事的中国人和日本人各自撰稿,汇集成册,以志纪念。
结果得到了大家的积极响应。不久便成立了由姚建健、朱伟林、董石华、吴蓉婕和资深媒体人章坤良组成的出版筹备委员会。
集体撰稿写书,说起来简单,但实际做起来并不容易。首先书稿的来源是蕞大的挑战。出版筹备委员会四处奔波征稿,但有时会因各种理由遭到拒绝。
尽管如此,出版筹备委员会并未气馁,把目光投向在日企工作或有外事工作经历的广大朋友。于是,得到了许多友人的共鸣。多数友人表达自己心声,说在有生之年,能为中日民间友好交流尽微薄之力的话,深感荣幸。
特别是向那些和中国深有渊源的日本友人约稿时,他们立即积极响应,表示定会鼎力相助。
尤其是日本国驻上海总领事馆米田麻衣领事得知此事后,不仅自己投稿,还动员了几位荣获上海市白玉兰奖的日本友人参与投稿。另外,中国通伊藤俊彦先生和山本和夫先生虽然年过七旬,但愿意承担起日语文章的审校工作。两位先生都说:“中日双方合作出书,这本身就体现了中日民间友好的巨大正能量。”还说:“中日双方只要好好合作,一定能取得成功!”
两位先生为了修改译文,经常挑灯夜战,甚至有时熬夜到凌晨,像老师批改学生的作业一样,逐字逐句一一校对,修改过的部分用红色标示出来。事后还要和中方译者交流,告知为什么要这样修改。朱伟林秘书长每次阅读伊藤先生修改过的文章时,总是深有感触地说:“经过两位先生润色的日语文章,味道就是不一样,我们的水平差的就是这一口气,还须努力。”
从去年八月份发起写书号召,到今年四月为止,仅八个月的时间,已经完成了日汉对照约 30 万字的书稿,这应该说是奇迹吧。我们把中日各界 29 位人士的作品结集成册。可以说这本书凝聚了中日两国朋友们的友情、智慧和力量,是在双方共同努力下完成的。这将成为中日民间友好合作的又一经典案例,也可以说是我们献给中日邦交正常化 50 周年的礼物吧。
蕞后,借此机会,我们再一次向本书的所有撰稿人致以崇高的敬礼和由衷的感谢!同时希望诸位今后也一如既往地为中日民间友好交流贡献自己的力量!
出版筹备委员会
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